私がもらったもののうち、記憶にのこっているものは、その殆どがお金ではなく手間のかかったものが多い。
一番は誕生日に、数枚の写真を送られてきた事だ。手にもったフリップに手書きでメッセージが書かれていて、それが数枚あわせると初めて完成したメッセージになると言うもの。
最近だと東京訪問時にもらった手紙も嬉しかった。また、娘も小さいころ、絵を書いてくれたのも記憶に新しい。既にとっている新幹線のチケットを無にしてでも会いに来てくれた方の、その行為自体にも感動させられた事もある。
手紙を書いて、それを写メで撮影して添付してくれたこもとあった。普通のメールでは味わうことが出来ない気持ちが凄く嬉しく思った事もある。
つまり、世の中には、お金によって伝わる気持ちもあれば、手間ひまかけてくれたものがお金に匹敵する、もしくは、それ以上の気持ちになるものもある。
お金とは気持ちを表す手段のうちのたった一つであり、それが全てではない。しかし、お金があるとそれをどうしても忘れがちになってしまうのでは無いかと思う。
私は水道も止められて死にかけた事もあるし、お金が無くて食べ物では無い物を食べて生活していた事もある。そんな時に出来るプレゼントなんて、手間ひまをかけて作る他無かったが、それが泣いて喜んでもらえた事もある。
少しだけ振り返って見て欲しい。
例えば今の彼女や奥さんが作ってくれる手料理が、当たり前になってはいないだろうか?
それは、お金と同様に、気持ちであると考えて見ると、あなたの世界は少し変わるのでは無いだろうか。
例えばいまご主人が仕事をする事が当たり前になってい無いだろうか?
働いてお金を稼ぐと言う事は、家に対してどのような気持ちを持っているかを考えると、世界が少し変わってみえるのではないだろうか。
例えばなにかプレゼントしようと思った時、全てお金で解決しようとしていないだろうか?
お金で伝わる気持ちもあれば、何かをする事で伝わる気持ちもある。一つ、手紙でも書いて見てはいかがだろうか。
例えばお店から買い物をするのは、お金を払うのだから当たり前と思っていないだろうか?
あまりにも乱雑にお店が増えすぎた結果、お店があふれ、物が溢れている。だからといって、その人達に対する行為が人として接する事を忘れてはいないだろうか。人生のうち、店員があなたの事を特別に思い、他よりも多くのサービスを受けることが出来ると言うのは多々あるのだ。
例えばお客にお金をもらい、商品やサービスを渡したのだから、それで終わりが当たり前になっていないだろうか?
例えばお店であれば、お客が使う机をビカビカに磨いたり、床を綺麗にしたり。お客がクレームを言わないのが当たり前になると、いろんなところで手を抜いてしまっているのでは無いだろうか。そのお店の商品はそのお店の雰囲気、行き届いたお客への気持ちが上乗せされていると言う事を忘れてはいないだろうか。
例えば子供に何かを直ぐに買い与えたりしていないだろうか?
直ぐに取り壊すことになるかもしれないが、ダンボールで作った家で少しの間遊んだ事が、ずっと記憶に残ることもある。子供は「一緒に作る」という作業その物が、完成した物よりも嬉しい事が多い。
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— お金とは何か。贈り物とはなにか。*ホームページを作る人のネタ帳 (via nakano)